年季の入った書き物机には、溢れんばかりの書類、書類、書類。
その山を喰らいつく雫ががりがりと頭を掻く。眉間に皺を寄せた目が、ちらりと背後を伺えば青いものがちらついている。それは服の袖だった。ゆらゆら、ぴょこぴょこ、ぺたぺたゆらり。…一向に消える気配のないそれに血管は音を立てて切れた。
「っだーーーーー!!!!いいッ加減にしやがれ鬱陶しいわゴルァ!!!」
怒鳴られた張本人はびびるどころか、振り向いてくれた雫にけらけら笑って喜んでいる。揺らしていた袖をさらにぱたぱた揺らして、嬉しそうにウトは笑った。
「あははっ、しずくおこったー、おこったー!」
「怒るわそりゃ!!」
「ねーねーしずく、あそぼー、あそぼー?」
「ふざっけんなてめぇ目ェ見えてんのかこの書類の山見えてんのかああああ!!!俺ァ忙しいんだよ!!てめぇとなんざ遊ぶヒマ無ぇ!!」
「えー。だってね、だってねー?今日おしごとないんだぁ。それでねー、ラグナいないのー。アダもエスもいないのー。つまんないのー。」
かまってかまってーとなつかれながら、雫は別の頭痛に頭を痛めていた。
双子のガキの居所は知らないが、あの拳銃野郎の居所には心当たりがなくもなく。ちらりと蘭斗の居室がある方を見やり、雫は盛大な溜息を吐いた。どいつも、こいつも。ウチは託児所じゃねぇんだぞ…。
「…知るかっつの。とにかく俺は忙しいんだ。仕事だからな。わかったら大人しくしとけ。」
居るだけなら好きにしていいからよ。ぽん、と頭に手を置きそう締めると、雫は机に向き直った。再び書類の山へと没頭していく。
居ていい、と言われた事にウトの頬が少し染まった。嬉しさにへにゃりと頬が緩む。だから今度は邪魔しないように、手はおひざ。大人しく終わるのを待っていよう。
…が、しかし。
(……あそべるの、まだかなぁ。)
この大量の書類を見て、どのぐらいかかるか想像する事はウトには少し難しい。
せっかく膝に置いていた手も、手持ち無沙汰にそわそわそわそわ。まだかなまだかなと雫を見ていたその時、
あるものが目に入った。

青くて長い、兎の耳。

よく見慣れたそれに、ふと目が留まった。
そういえば。今まで考えなかったけど、あの兎の耳はなんだろう。
時折ぴくりと脈打つそれは、血の通った生きた耳。飾りでもニセモノでもない、本物の、生えている耳。
どうしてしずくにうさぎさんの耳がついてるんだろう。
少なくともウトは、雫以外で兎耳の生えた人間を見たことがない。

自分でも自覚していなかった。
考えている間に、手を伸ばしていた事に。
なんだろう、なんだろう。一度気になると気になってしょうがない。気になるものは、触りたい。子どもじみた思考は抑えられる事なく。

ぎゅっと、握った。


―――瞬間、雫の全身が、総毛立った。


びぃんと神経を弾かれたような、冷たい痺れが全身に走る。
開く瞳孔。凍りつく脊髄。ほとんど反射運動のように、ウトの手を弾き払った。そして、
「―――ッ触んじゃねぇよ!!!」
怒鳴る声の大きさは、自分でも驚いた程だった。
荒く、速い、呼吸が肺を刻む。冷たい痺れはまだ四肢にわだかまる。頭の中が真っ白で、ぽかんと見開いたウトの目に、映る自分の姿をただただ見据えるばかり。
…そしてゆっくりと、我に返った。
「………、あ。」
やべっ、と思った時には全てが遅かった。
やばい。やっちまった。やっちまった。ウトの口元から笑みが消えていてさらに雫を焦らせる。何か声をかけなければと思うのに身体は強張ったまま動けない。
無音が、突き刺さる。
……情けねぇ。自己嫌悪で俯いたその頭に…そっと袖が乗った。


「…こわいのー?」
柔らかい、青い袖だった。


今度は雫がぽかんとする番だった。その目とウトの目が合う。丸い目は穏やかだった。口元にはいつもの楽しそうな笑みが戻っている。
「しずく、しずくー。だいじょーぶ。こわくないよー。」
なでなで、なで。髪がかき乱されるのがわかった。見開いた雫の目が、戸惑ったように細められる。
「……な…んだよ、怖かねぇよ…。」
「こわいのこわいのー、とんでけー。」
「おい話聞けよ。怖くねぇつってんだろ。」
そうなの?と覗きこむまぁるい目。曇りのないその目に、覗きこまれると怯んでしまう。どこまでも覗きこみそうなその目に。
ウトはそんな事気付きもせず、にぱっと笑った。
「えへへ。しずく、おそろいだねー。おそろいー。」
「お揃い…?」
「うん。ぼくもねぇ、こわいもの、あるの。おそろいー。」

「きもちわるいって、いわれるの。」
ぴく。僅かに揺れる、雫の耳。
「かなしいの。かなしいから、こわいの。ぼくのこわいもの。」

だからね、こうするのー。そう言ってくしゃくしゃと手を動かす。拙い手つきだった。今頃髪の毛はぐっちゃぐちゃだろう。
「らぐながね、こわいときは、こうしてくれるの。」
そしたらぼくの、こわいこわいは、とんでっちゃうんだ。
ウトは笑う。しあわせそうに。曇りなく偽りなく、しあわせそうに。


…いつのまにか、荒かった呼吸は落ちついている。
軽くなった肺で雫は思いっきり息を吸うと…思いっきり溜息を吐いた。
「…てめぇがまず言わなきゃなんねぇのは…。」
ごつっ、と軽い拳骨。きゃうっとウトが変な声を上げた。
「まず、ごめんなさい、だろうが。」
「えう…しずくいたい。いたいよう。」
「ったりめーだ馬鹿。おら、まずはごめんなさいだ。気になったからって人の耳ひっぱっちゃ駄目だろーが。相手が痛かったり嫌だったりするかもしれねぇだろ?」
「ふあ。…そっかぁ。えっと、ごめんなさい。」
今度はちゃんと納得したらしい。ぴょこんと水色の頭が下がった。子どもを諭すようなその言葉は、ウトにもわかりやすかったようだ。
ったく、いくつだよてめーは…。そう呆れ果てながらも。
雫は拳骨をそっと解き、水色の髪へと乗せた。


「…それでよし。許してやるよ。」





ふりーくす・っず


fin.