(…いやしかし、綺麗な人だよねぇ…。)
並んで歩くその横顔は、真珠も霞んで見えそうな白磁の肌。彫刻のように非の打ちどころない目の大きさ、鼻の形、唇の膨らみ。ビスクドールと例えるのも恐れ多い程に麗しい淑女だ。
その彼女がふっとこちらを見る。艶のある黒髪が淑やかになびいた。磨きこまれたアクアマリンのような瞳が、クリエを映しだす。
「どうしたの?」
その声が、また。心を狂わせる音色だった。
クリエの耳は聴こえないが、その声が肌に伝える振動は、これまで聴いたどんな女性のものとも別格だ。
(…本当に美しい人だ。)
思わず唾を呑みこんでしまう程。
空を見上げればまだ昼の青空。こんな時間からそわそわしてちゃはしたないかな。あくまで表向きは好青年の笑顔を浮かべながら、内心はどうしても浮足立ってしまう。
美しい人。この世に二人とない程美しい人。そしてその喉が紡ぐ美しい声。
彼女が叫んでくれたら、どれだけ素晴らしい、音色が。

くす、と彼女が小さく笑った。
やば、俺なんか変な顔してたかな。内心少し焦っていると、彼女が柔らかく微笑んだ。
「貴方って、見かけによらず無邪気な人ね。」
…?
どういう意味、だろう。褒められたのかけなされたのか。それ以前に言われた意図すら掴みかねていると…すぅっと、彼女が目を細める。
「―――その無邪気さが、災いの元よ。」
次の瞬間には、刃がクリエの眼前に迫っていた。
紙一重で避けたものの、エメラルドの髪がはらりと散る。間髪入れず二撃目、三撃目。迫る彼女をぎりぎり避けながら、クリエはたっと後ろに飛んで距離を取った。
かつんとハイヒールで地を鳴らし、ミリタリードレスで凛と立つ麗しい人。細面は無表情にクリエを見据え、その手にはナイフがぎらりと光る。
柔らかに微笑んでみせる、先程までのライラとは別人のようだった。

「おっ…と。びっくりしたぁ。突然なになに?」
へらりと笑うクリエをライラは見据えた。
「説明する義務はないし、説明しなければわからないようならとんだお馬鹿さんね。」
次の瞬間にはまた喉元まで迫る。今度こそナイフが喉へと閃いた。しかしその一閃は虚しく空振り、ライラの背後でふわりとマントがたなびいた。
「君が麗しき刺客だって事はわかったよ。たまにはこういうのも刺激的でいいね。たおやかな声も素敵だけど今のクールな声も素敵だよ、ライラ。」
「あら、ありがとう。お世辞じゃない賛辞というのは嬉しいものね。」
そう言いながらも笑み一つ零さず無表情のままだ。さらりと漆黒の髪を流してライラは振り返った。

「女の子の扱いがお上手ね。指名手配のサイコキラー、クリエ・ヴィクトワールさん?」

ぱちくり。クリエの青い目が、無邪気に瞬いた。
「…驚いた、よく知ってるね。俺ファミリーネームまで名乗ってたかな?」
「いいえ。名乗っても名乗ってなくても同じ事。貴方を一目見れば一目瞭然よ。」
そう。ライラの青い瞳がクリエを一目"見"る。それだけでライラの目的は8割方達成だ。氏名出身経歴職業、出生時の出来事からつい数秒前の出来事まで。一目"見"れば全てわかるのだから。
クリエは派手な犯行を繰り返す割に、不思議と尻尾を捕ませないサイコキラーだった。理由は不明だが、単に器用なのかもしれない。どうも彼からは彼女の飼い主と似た匂いを感じる。まぁ理由の真偽はどうでもいい。こういう調査しづらい輩には、ライラのように反則的な駒がうってつけなのだ。
「…本当ならどこにも所属してない野良蜥蜴なんて、放っておいてもいいのだけれどね。」
構え直したナイフがきんと光る。低い姿勢でたっと地を蹴って、鋭くナイフを閃かせた。避けられた先を冷静に目視、そして間髪入れずまた振るう。息もつかせぬ速さでナイフはクリエを追いかけた。
ついにその先で、がぎんっ、と硬い音が鳴る。
クリエが何かの柄でナイフを受け止めた音だ。その大部分はマントに隠れ、何の柄かは見て取れないが。
「貴方は無邪気すぎたのよ。手を出しちゃいけない"ご令嬢"くらい、見極めないといけないわ。」
軍の高官の娘。経済界の重鎮の娘。そういう地雷は上手に避けなきゃね?
でないとすぐに足を取られてしまうわ。もう遅いけれど。
クリエはというと、少し熱っぽい笑みでライラを見つめ返す。この期に及んでまだライラの声に聴き惚れているのだ。読みとったライラはさすがに呆れ果てた。
「…結構情熱的なのね。嬉しいわ。もうじきその熱も冷めちゃうでしょうけど。」
「うん?どうして?」
「死体に熱は持てないもの。」
「あ、そっか俺死体にされちゃうのか。それは悲しいなぁ。」

ひゅんっ。クリエが突然柄を回した。
バトンのように軽く回して見せるがその直径はかなり大きい。距離を取るライラにも構わずクリエはくるくるとバトン芸を続ける。
腕が頭の上へ伸びたあたりで、ようやくぱしっと掴み回転をやめた。
それは斧だった。華奢な柄に華奢な薄刃、けれど生き血で染め上げたように真っ赤な大斧だった。
「死体は悲しいよね。だって二度とその喉を震わせてくれないんだもの。」
それをぶんっと無邪気に振り、ライラに真っ直ぐ突きつける。
「だからなのかなぁ…死にゆく刹那の最期の絶叫<コエ>は、言葉にできないぐらい美しい…!」

クリエが跳んだ。
両手で握ったその斧を真っ直ぐ振り降ろして跳びかかる。当然ライラはさっと避けた。人の心が読めるライラだ。相手が斬ろうとする位置ぐらい容易く読める。
避けた先でライラは目を瞠った。斧が地に着くことなく横薙ぎで自分を追ってきてたからだ。慌てて避けた先にもまた斧が追ってきた。
自分のナイフ捌きとそっくりだ。だがあまりに切り返しが早すぎる。こちらはナイフ、向こうは斧なのに。しかもその軌道が先読みできないのだ。
クリエは右手左手と自在に斧を持ち替えて、軽やかに斧を振るい続けた。まるでバトンか指揮棒のようだ。
口元には鼻歌でも歌いだしそうなほど、楽しそうな笑み。
頭では何も考えていない。ただ、赴くままに斧を振り回しているだけ。思考とも心とも違う"感性"に従った動き。だからライラでも読みづらいのだ。
「ふふっ、焦らされるのもたまにはいいかも。なーんてね。」
楽しそうに、嬉しそうに。真っ赤な斧がくるくる、くるくるくる。
「ね、ライラ。綺麗な綺麗なお姫様。君はどんな素敵な声で、歌ってくれるかな…?」
一瞬瞠ったライラの目が、すっと細くなる。


「―――残念だけど、」
とっ。クリエの右肩にナイフが埋まる。一拍遅れてクリエが目を瞠った。
「人形に、歌える歌はないのよ。」


念の為ライラは素早く距離を取ったが、どうやらその必要はなさそうだった。
痺れたクリエの右腕から、からんと斧が落ちた。肩口のケープは見る間に真っ赤に染まる。しばらくその腕は使い物にならないだろう。クリエは傷口を押さえる事も忘れ、痺れる右手をぽかんと見つめた。
「…うわ。やられちゃったなー…。」
「言ったでしょ。その無邪気さが、災いの元よ。」
頭で考えない動き方は確かに読みづらい。が、緻密さを欠いたとも言えるその動きは隙も大きいのだ。
これでおしまいね、無垢なるサイコキラーさん。
再び距離を詰め、血濡れたナイフをその喉へ。貫く直前の刹那、ふわりと笑むその口元をライラは見た。
「…人形だって?」
ナイフが空振った。かがんで避けたクリエはついでに蹴りをライラの足へ。軍靴ならまだしも、華奢なハイヒール履きの足はわずかによろける。
「…!」
それでもなんとか踏みとどまって体勢を直すが、既にクリエの姿はなかった。鳥の羽音でライラははっと見上げる。レンガ葺きの屋根の上、飛び乗ったクリエから鳩の群れが逃げていった。
「冗談が上手いね、ライラ。人形はそんな美しい声で喋らないよ。」
「…腕一本逝ってるのに身軽なものね。」
「あはは、ありがと。だってこのまま君の声を聴かずに死ぬのは嫌だからさ。」
いつのまにか左手が斧を拾っている。相変わらず軽そうにそれを携えながら、クリエは悠々と踵を返した。

「カッコ悪いけど、今日は逃げさせてもらうよ。」
ふわり。たなびくエメラルドのケープマント。
「それじゃあね、ライラ。次こそは聴けるといいな。麗しいお姫様の、素敵な素敵なアリアをね。」




蒼いのコンチェルト


fin.