―――ごめんね。

産んでしまって、ごめんね。



少年の大きな瞳に映る、錆びた包丁の切っ先。








私の一人息子は、

素直な子だった。純朴な子どもだった。
父親はとうに亡くしたけれど明るく真っ直ぐに育った。
言葉はたどたどしく、あまり物はわからないけど。
幼く無垢な笑顔を、いつでも見せる子どもだった。


齢16になっても、尚。


注がれる温かな眼差しも、段々と冷えていった。
曇りゆくその表情には、奇怪さへの恐怖が混じっていった。
囁きが。囁きが。囁きが。日増しに密度を増し、逃げ場を失くしていった。

『あの子はおかしいのではないか。』

…嗚呼。今日も私は叫びを押し殺す。そんなこと、言われるまでもなく。

だから扉は閉めきるの。要らぬ囁きが聞こえないよう。
だから窓は閉めきるの。要らぬ視線がのぞかないよう。
太陽も月も空も風も、どうせ嘲笑っているのでしょう。
全てを遮断した箱の中に、

この子をしまうの。

愛しい子。哀れな子。貴方の味方は私だけ。私だけなのよ。


彼は良い子だった。言いつけを守らなかった事なんてない。
家から出てはいけない。扉を開けてはいけない。窓を開けてはいけない。外を見てはいけない。外へ話しかけてはいけない。
全ての言いつけを従順に守る、何一つ疑わずに守る、良い子だった。

…ああ。ほら、ほらね。彼はとっても良い子じゃない。
無垢な笑顔を見るたびに思った。この子は愛すべき子よ。悪いのは心ない人達。彼らがねじくれているから私達を笑うのよ。
…けれど。
同時に私は怯えていた。見ないようにしても。忘れようとしても。ひたひたと黒い恐怖が背筋を浸した。
あの事だけは知られてはいけないと、怯えていた。
どれだけ彼らに罪をなすりつけたって。あの事を知られれば、"普通"は、到底受け入れてくれない事を私はわかっていたのだ。


知られてはいけなかった、のに。
嗚呼、神様。どうして私ばかりにこんな、惨い仕打ちをなさるのか。
それは北風のとても寒い日、私が働きに出た後の事。扉のたてつけが悪くなっていたのでしょう、鍵のかけがねが外れていたの。その隙間から村人の飼い猫がもぐりこんでしまった。なんて悪い偶然が重なるの。まるで悪魔が仕組んだよう。
あの子はきっと、
迷いこんだ可愛いお客様を、撫でてあげようと、したのでしょう。


猫は、潰れてしまった。


事件はあっという間に村中へ広まった。
隣町の軍警や神父もやってくる大騒ぎになった。
誰も彼もが胸を張って正義の顔をして、
"バケモノ"を許すなと、声高に叫んだ。

遂に知られてしまった。
愛しいあの子が生まれ持つ、おぞましき怪力。

どうして、どうして、どうしてなの。
戸を叩かれて窓を叩かれて、昼夜泣いても誰も許してはくれなかった。
私が一体何をしたの。
私はあの子と幸せに生きたいだけよ。
私が、私が一体何をしたの。私これまで頑張ってきたじゃない。貴方達が気持ち悪がるから見せないようにしたし、怖がらせないようにおそろしい事は秘密にしたわ。奇妙な我が子だって心底愛したし、家のものを壊されたって怒らず慈しんだわ。
私が何をしたの。
私が一体何をしたの。
あの子を産んだ事が
産んだ事が罪だと言うの。


普通に成れない、化け物にしか成れない、あの子を産んだ事が、罪だと言うの。







今夜は、

奇妙な程に静かな夜だった。昼でも夜でも騒がしかった騒音が、しんと静まりかえった夜だった。
あの子はそんな変化に構う事なく。
ぼろぼろでつぎはぎだらけのぬいぐるみを、抱きしめて無邪気に遊んでいた。

無音の夜だった。虫の声も鳥の声もしない。
いつもならことこと音を立てる調理場も、冷え切って埃が積もっていた。
ああ、ごめんね。ご飯作るの忘れていたわ。あとで作ってあげるからね。

こんなに錆びた包丁では

おいしいの、作れないかもしれないけれど。


彼が振り返った。無邪気な笑顔で微笑んだ。屈託なく天使のような、愛らしい笑顔だった。
ああ。ああ。ああ。
ごめんね、ごめんね。私のせいね。普通に産んであげられなくて。まともに産んであげられなくて。ちゃんと産んであげられなくて。ごめんね。ごめんね。
あなたはわるくないわ。
わるいのはおかあさんだから。

わたしが、せきにん、とらなくちゃ。

きつく包丁を握った両手を、高く高く振りあげた。



「―――ごめんね。」


「産んでしまって、ごめんね。」









「―――…おかーさん?」

部屋の中でひとり、少年が呼ぶ。
ぺたりと座りこんだまま、部屋の虚空に向けて。
部屋中にばらまかれた液体に向かって。
何度も、何度も、少年が呼ぶ。

「おかーさん?おかーさん、おかーさん…?」

おかーさんどこ?どこにいったの?傍らに転がる、錆びた包丁。
どうしていないの?へんじがないの?伸びた袖を濡らす、真っ赤な鮮血。
自分の生存本能が一体何をしたか
理解できないまま、少年は、少年は、ただただ。

人一人を砕いた轟音は、真夜中の村へ響き渡る。
まもなくして扉は開き、窓は開き、無数の銃口が少年を囲んだ。
少年は床に座り込んだまま、呆けたようにそれを見ていた。






聖母像の


(彼女は最期まで、我が子を名前で呼ばなかった。)

fin.